こんにちは、内藤です。
今回は、作品の質(クオリティ)と商売、というお話です。
よくクリエイターとして活動していると
「クオリティ」という言葉を耳にします。
プロの世界になると、
「クオリティが高いのは当たり前だ」
なんて、いう言葉が聞こえてきたりするものですから、
クオリティがなければ、そもそも
仕事をしちゃいけないんじゃないか、
という風に、駆け出しのクリエイターは
考えたりするかもしれません。
スキルがまだまだだな、と自分で適切に評価できる人ほど
不安にもなりますよね。
気持ちはわかります。
僕はあれこれ中途半端にやってきた人間なので、
スキルの熟練度で言えば、どうしても周囲にプロとは
比べ物にならない、という自覚を持っていますから、
スキル不足の不安は常に抱えています。
しかし、仕事という捉え方、もっと言えば商売という
見方をした時に、少し考えを改めなければ、という風にも
感じているのです。
クオリティがなければ、そもそも
仕事をしちゃいけないんじゃないか
この考え方は、僕は半分間違っていて
半分正しい、と思っています。
この言葉にはきちんとした
「前提条件」がある話だと僕は思っています。
今日は、そんなお話です。
「そもそもクオリティってなんなの?」
っていう話になってくるのですが、
Qualityですから、日本語に直せば、「質」ですね。
じゃぁ一体なんの「質」なんでしょうか。
映像で言えば、
・カメラの画角の質が高い?
・色味の質が高い?
・編集のタイミングの質が高い?
・エフェクトの質が高い?
いろんなものがあるかもしれません。
実際、いろんなものがあるでしょう。
ただ仕事において「質」を考える上で
大事なことは、その作品・商品・サービスを
受け取る人にとってどれくらいの「質」が
求められるか?です。
カメラの画角の質が高い、
というのがあったとして、
極論、その画角の質は
1mm単位でこだわったものが必要なのか?
という話です。(そもそも単位が微妙な気もしますが:苦笑)
シン・ゴジラの画角は
監督の庵野さんがこだわったことで、相当苦労した、
という話を聞いたことがありますが、
(あれはすごく良くできていると思います)
ではその画角の細かい差異を
どこまで視聴者が理解できるのか?
というと、理解していない人の方が
多いような気がするのです。
「神は細部に宿る」
と言いますし、映画だからこそ、
僕はこだわる理由があると思っているんですが、
使われるシーン、求められるシーンによって、
「質」は変わるものです。
具体的な別の事例を出しましょう。
孫がおばぁちゃんに「肩たたき」を
お願いされたとして、
おばぁちゃんに「プロ品質の肩たたき」は必要でしょうか?
ここで、おばぁちゃんが求めているのは
「肩たたき」の質ではなく
「孫と会話できる」状況でしょうから、
あえて質という言い回しをするなら、
「コミュニケーションの質」でしょう。
コミュニケーションの質、というと
なんだか誤解を招かれそうですが、
無口でただ肩を叩かれるよりは、
いろんな話をしながら、楽しく話をしつつ
肩を叩かれる方が喜ばれるでしょう。
ここでいうコミュニケーションの質とは
そういうことです。
別の例で言えば、
「おふくろの味」で人気の
小さな食堂があったとします。
ここの店主は、
高級料理店のプロと同じくらいの
品質を提供できるくらい料理の腕と
料理の味を提供できなければ、ダメなのでしょうか?
きっとそんなことはないですよね。
「おふくろの味」
で人気なら、昔食べたことのある、
母親の料理の味を思い出させてくれる
ような料理のはずです。
じゃぁ、世間の母親は
高級料理店のプロと同じくらいの
質の高い技術と味を生み出せてるのか?
というとそういうわけではありません。
彼女たちは日々子育てや家事に忙しいですから、
そういう技術的なところよりも
日々の創意工夫と愛情で料理を作っているはずですから、
そもそもプロのそれとは違うわけです。
でも「おふくろの味」で人気が出ている商売は
プロの技術ではなく、違うところで商売をしている、
という話になります。
今の事例は全部、プロの話ではなく、
素人の話じゃないか、と思うかもしれません。
でも、ここに大きなヒントが隠されています。
クリエイターとして、お金を稼ぐ場合、
大事なのは、「商売をしている」
という自覚を持つことです。
それが「商売」なら、
相手が求めていることを提供する
というのが大前提です。
それなら「質」においても
相手が求めている「質」を提供するのが
大前提です。
それ以上の質は、オーバースペックです。
インターネットしかやらない主婦の人に
最新のハイスペックのノートパソコンを
提供するようなものです。
とはいえ、これは、
オーバースペックの品質を提供することが悪い、
と言っているわけではありませんし、
それをするな、という話ではありません。
最低限、ここまでの質は提供したいよね、
という「クリエイターとしての意地」みたいなものもある
と僕は思っています。
実際、クライアントがOKを出したとしても、
「いやぁ流石にこのクオリティは恥ずかしくて出せないよ」
とか
「同業者に見せてもいいと思われるものを出したい」
というのがクリエイターの性なんじゃないかと
思ったりします。
だから時間ギリギリまで使ったり、
もっと良くしようと考えたりするわけで。
それでも「商売」というものは、
「相手の求めているものを実現する」
ものです。
そこを履き違えてしまうと、
「クオリティが高いのは当たり前だ」
という言葉に惑わされてしまうのではないか、
と思うのです。
「クオリティが高いのは当たり前だ」
この意識はクリエイターとしては貴重な意見ですし、
場合によっては重要かもしれません。
そして、高い品質を提供できるのであれば、
それはそれで良いことでしょう。
ですが、高い品質を保つためには、
提供側も時間をかけ、準備していく必要もあります。
ミスがないようにチェックするための工程を
入れる必要もあるかもしれません。
つまり、高い品質を確保するには
多くの場合、コストがかかってくるんです。
それで採算がとれるのであれば、
高い品質を求めることは良いでしょう。
安くて、高い品質なら求めるお客さんも
多いでしょうし、嬉しいと感じる人も多いでしょう。
それでも、「別にそこまで求めていない」
あるいは、「素人にはわからない品質がある」
ということを提供側の僕らははっきりと自覚しておいた方が良い
と思うのです。
お客さんの中には「質」よりも
「スピード」を意識するお客さんもいますし、
「見た目の質」よりも、
「どれだけ効果があったのか?という質」を求める人もいます。
広告関係の仕事であれば、
実感のある人もいるでしょう。
反応が取れない、プロのデザインクオリティよりも
反応が取れる、なんちゃってクオリティが良い
という人だっているのです。
実際、僕が長年依頼いただいたお客さんは
ぱっと見すごいデザインや映像よりも
それっぽい反応の取れる成果物を
スピーディーに提示してくれることを好んでいます。
もちろん、反応が取れるなら、クオリティが高い方が良い。
要するに優先順位が異なるのです。
そういうところまでわかった上で、
「クオリティが高いのは当たり前だ」
というのであれば、僕は良いと思うのです。
最高のクオリティで、
最高の反応率で、
最高のブランドイメージを作れるなら、
それはクオリティが高いのが良いのは当たり前です。
それを作れる人がどれだけいるかわかりませんが、
ただ見た目だけのクオリティだけで、
判断するのはちょっと違うと僕は思うのです。
「クオリティが高いのは当たり前だ」
この言葉は、専門職として高い品質を保ちたい、という
意気込みや高い基準の意識を保つためのものだと思うのです。
商売をやっている以上、
相手に寄り添った上で、
彼らができないことを代行するのが、
クリエイターの1つの仕事なんじゃないかと
思うのです。